社会貢献の意義について:エマニュエル・スウェデンボルグの啓示(1)
古典落語の名作に「文七元結(ぶんしちもっとい)」という演目がある。これは左官職人の長兵衛が博打の借金返済のために借りたお金を、持って帰る途中、売上金を盗まれたといって今にも自殺をしようとしている見ず知らずの手代にくれてや り、あとでこの話しを聞いた手代の勤めている鼈甲問屋の主人が
甚く感激し、これが縁で長兵衛とこの主人が親戚付合いを始め、終いには長兵衛の娘とこの手代が祝言をあげるという、ハッピーエンドの典型といえるストーリーである。
この話は一見何処 にでもある利他の効用を説いているように見えるのだが、私はこの落語を聴くたびに、「エマニュエル・スウェデンボルグ」の名前を思い浮かべてしまう。
スウェデンボルグは18世紀末のスウェーデンの科学者で、数々の輝かしい業績を当時の西欧社会に残した人物と伝えられている。晩年彼は突然、生きながらにして死後の世界に自由に行き来できるようになる。そこで見聞きしたことを綴った手記(主に宇宙の仕組みや人間の生きている意義を淡々と綴ってる)が後年書物として出版されているのだが、この内容が実に興味深い。
いわゆる目から鱗が落ちるとはこのことを指すのだと私は思った。私が自分なりにこの手記を読んで解釈したところをかいつまんで述べると人間とは本来自分以外の人のために存在するもので、例えるなら他人が喜ぶのをみて自分も嬉しくなり、その嬉しがっている自分を見た別の人がまた幸せな気分になる。
それを無限に繰り返すことで、幸福感に満ちた生活をいつも送ることができる。他方人間は自由も与えられているので、そのうち自分の喜ぶことをすることが自分の喜びで、その喜びを達成できたときに幸福を感じるという人もあらわれた。
前者の幸福感と後者の幸福感は質的に同じものである。違いは前者が比較的容易にかつ頻繁に幸福感を味わえる(他人の喜ぶことをすることは簡単である)のに対し、後者はそんなにしょっちゅう自分の思うようにはなることはなく、且つ自分が喜ぶために誰か他の人が悲しむ可能性があるということである。
スウェデンボルグが指摘しているように、人間には自由が認められているからどちらのルートで幸福感を追求してもよいのだが、おそらくは前者(他人の喜びが自分の幸福)のように生きられるとしたら、きっといつもにこにこしていられるのだろう。といつも思いつつ、「生きているうち」にこのように思えるようになれるか私には甚だ自信がな い。
企業や個人の社会貢献は、まさにこの「前者」の具現化といえる。やはりとても大事な ことである。
次回は社会貢献と「生きているうち」との関係を、スウェデンボルグの啓示的視点から述べてみたい。
2005年10月11日
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「聴導犬」を知っていますか?
品川駅のホームで、仕事中の「聴導犬」に出会った。オレンジ色のユニホームを着け、ご主人の隣でチョコンとお座りの姿勢をとっている。
聴覚の不自由なひとに代わって家の中では、目覚ましやインターフォンや電話の呼び出し音を伝えたり、外出時には車のクラクション、ご主人の名前に反応するように訓練されている。
補助犬法ができて一年以上がたつが、まだまだ市民権を得られず、相変わらず入店や入場を拒否されることが多いそうだ。「他のお客様のご迷惑になりますので」。そんなときはすかさず「ちっとも迷惑じゃありませんよ」と一言、声に出してあげてほしい。



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